4期 清野耕一
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1952年(昭和27年)、中学校3年の時、我々1学年100名(女子含み)は、秩父宮ラグビー場の青山寄りスコアボードの下で、全早大対オックスフォード大の試合を観戦した。 体育の川田清八先生は教育大のOBで専門は陸上だったが、戦後初めての外国からのチームの来日とういことで連れて行ってくれたのであった。

このオーバルなボールは男子生徒のハートをつかみ、以後ずいぶん校庭でラグビーごっこをして遊んだ。50名の男子生徒の内7名までが大学までラグビーを続けた。 私のラグビーのルーツである。

高校、大学、社会人、そして不惑倶楽部でトータル63年、自分ながらよくラグビーを続けて来たと感心している。 このボールゲームの不思議の不思議さは、同じグランドでプレーしなくとも、練習しなくとも、ラグビーをしたいというだけで皆が仲間になってしまうことだ。それも何年も前から知っているような仲に。

普通、先輩後輩というのは、同じチームの上下で呼び合うものであろう。それがどうであろう、ラグビーをやっただけであれば、あたかもまったく同じ学校の先輩のように、年下であれば同じように後輩になってしまう。その先輩後輩の絆が出身校などまったく超越しているところにラグビーの魅力を感じているのは私だけではないだろう。

息子の購入した「知と熱 大西鉄之助」(藤島 大著)を読んだ。その文中で大西鉄之助氏がスマトラで捕虜になった時、大西鉄之助氏が軍刀と一緒に腰につけていた早明戦連覇のボール型メダルを戦犯調査官の英国大佐が見つけ、「ラグビーか、私も軍隊でプレーをした」と語りかけた。 これが最後のラグビー談義かもしれないと思い、大西氏は語りに語った。 「わかった貴殿を信用しよう、さあ食事でも」と一命助かり無事帰国した。 その時をふりかえり、 「不思議でしようがないですよ、ラグビーをやっているやつは。日本であろうとイギリスであろうとニュージーランド、カナダ、どこへ行っても皆一緒。ラグビーをやっているだけでバカみたいに一緒になっちゃうんだからなあ。」 と語っているラグビーボールはラガーマンを引きつける何かを持っているのだ。

5期生の岡村 正 日本ラグビー協会会長を私が知ったのはそんなに以前のことではない。関東大学OB35,6,7年卒のラガーマンが集まり懇親会を開いている。「ごろしち会」と名付けている。19校から毎回50人ほどが出席している。H19年が第一回目の開催であった。何回目からか出席してくれた彼が私達(慶応、青学、日本)の後輩である、ということを私と附属同期生の中沢君から聞いた。

彼は附属大泉中から都立戸山高、そして東大法学部卒、東大ではラグビー部入部、部の先輩の誘いで(株)東芝入社、入社後も会社でラグビーを続けた。

昨年3月、一か月にわたり日本経済新聞「私の履歴書」に掲載された。

「独身寮(父は銀行の舎監をしていた)に引っ越したころ、私は練馬区の学芸大学附属大泉中に通っていた。大学を出たての若い先生が多く、自由闊達な学校だった。自分でもわかるくらい性格が一変し、毎日が楽しくなった」、

また大学ラグビー部では、先輩から云われたなかで、「各自はプランをつくって練習に励め」、の言葉は私の人生のキーワードになった。全員で戦略を共有し、個々人がその為に何をすべきかを考える。それはまさしく仕事に通じる話だ、と今でも当時の教えてくれたその先輩に感謝している。

東大卒業と同時の1962年に東芝に入社、71年~73年まで社命にて、アメリカ ウイスコンシン大学へ留学。2000年、部長・常務を経て取締役社長、2005年取締役会長、2009年相談役。2007年~2013年日本商工会議所会頭。2015年日本ラグビー協会会長。

会社に関係がなくなった現在も、東芝のラグビーの試合の観戦は欠かしたことがないのではなかろうか。私の息子が(株)NTT在職、ラグビーのOBの為、秩父宮Gでの観戦が多い。彼が社員と同席で観戦しているのを何回か見ている。

W杯第一戦の南アフリカに勝ったことは、協会会長に就任後初めてのビックニュース、彼の就任祝に大きい大きい贈り物だ。彼の会社の再建のこともあるが、2019年の日本でのW杯に向け頑張ってもらいたい。微力ながら我々年寄りラガーマンも大いに協力します。

まだまだW杯は始まったばかり、Japanにとってもプレーはこれからだ。

4期 清野 耕一