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 “大泉”に在任中(附泉中60~77、大泉校舎77~92)だったと記憶するが、大学のホームカミングデーで、大学草創期の話をさせられた事があり、その際、在学生のみならず、大学の教員の皆さんからも、初耳の事が多い、との感想には、意外感と開いた会合の意義、を感じた次第である。

 この度、中等学校の学園祭に際して、同窓会がこの催しを役員の皆さんのご努力で、開催する事ができたが、学校側の立場では、大学と違って、これまた判断の難しい催しだったと、推察される。

ホームカミングデイ2016閉幕。最後までいてくださった皆さんと記念の1枚。

ホームカミングデイ2016、記念の1枚。

 その数日前、若林元副校長さんの8月末、逝去の報に接し、奥様からは、最期を向かえるに当たり、先生がご夫婦間でしっかりとした別れの会話を交わし、その数日後、旅立たれたと伺い、先生の誠実で几帳面な性格が最後まで通された事に、改めて敬意を表したいと思いつつ、この会合に出席したが、皆さんと一緒に、哀悼の黙祷を行えた(序でながら、NHK大河ドラマ「真田丸」の真田家の本拠上田城に、今日存する上田高校は、先生の母校である。)。

ホームカミングデイの冒頭、2016/08/27土に逝去された若林 克壽 先生(数学、副校長)に、来場者全員で黙祷を。昭和40年4月~平成12年3月在任、担任受持ち期17・19・20・24・28・30・34・38・42・48期。

ホームカミングデイの冒頭、2016/08/27土に逝去された若林 克壽 先生(数学、副校長)に、来場者全員で黙祷。

 学校には、久しぶりで伺ったので、星野副校長さんのご案内で、校内を一巡し、中・高が併存する学校として、立派に改装再生されているが、使用空間としてはやはり窮屈そうで、現在、中・高が入れ替わって有効に使用しているとの事だった。

 星野先生の案内で思い起こした事に、私が附泉中から大泉校舎に移って間もなく、初の文部省派遣の米国補習授業校視察を命じられ、シカゴに次ぎ訪問した創立早々のワシントンD,C校には、当時、小学部の児童として先生が在籍していた。以降、海外帰国子女の先駆けとして、多くを体得して帰国したのだが、その後、縁あって大泉校舎に着任した。当時、学校には、欧米からの訪問客が多く、その応対を務めた先生を、訪問者の多くが、その会話・学識を高く評価していたが、今日、副校長の職掌にあるのは、大泉地区として真に結構な事と、密かに感じている。

 さて、参加した同窓の皆さんは、附泉中草創期で存じ上げない方には失礼したが、前会長近藤さんや8期の桂川さんを始め、14期以降は30期頃(50歳代)まで、各期かなり満遍なくを参加していたようで、多くの皆さんとできる限り、短い会話を交わしたが、どなたも中学生に戻った雰囲気だった。旧大泉校舎の卒業生が乏しかったのは、附泉中ともに同世代の事情は同じで、と云う印象だった。先生方も長老中西先生、旧附中の大川・藤木・石川・板村・成田さん、大泉校舎の小沢・愛甲さんが見えていたが、今昔の深い思いを感じた。

中西先生・新妻先生・藤木先生

中西先生・新妻先生・藤木先生

 偶々、会場では、17期の川名 譲君が、東北の修学旅行を、8㎜フイルムで撮影したものを、上映していたが、これは恐らく、附泉中でも初の大変貴重な記録映画であろう。翌々日、早速、川名君に電話で、当時の事を聞いてみると、僅か3分撮影程度のフイルムなので何本も持参し、その入れ替えに苦労した事、皆の団体行動に支障なく撮影できた苦労話を伺った。15歳の年齢を感じさせない立派な作品で、学校では、財産ともなり得る物であろう。

中学17期(昭和40年)の修学旅行

中学17期(昭和40年)の修学旅行

 この会合に参加するに当たり、突然、思い出や感想等を聞かれたらと、印刷物を持参してきた事を、赤羽副校長さんとの話中に出て、結果、このプリントを配る羽目になった。その内容は、この開催当日の9月18日は、その昔、1931年同日、柳条湖事件が起こり(満州事変)、日中戦争の始まりで、やがて太平洋戦争へと続く、国内外が厳しくなる発端の出来事だった。更に、実は同年、その2か月後、大川先生と私が誕生するが、その我々も間もなく85歳を迎える、と云った事の資料であった。

石瀬さん(中央)

新妻先生・石瀬さん・堀江さん

 それにしても、人手不足の中、堀江会長さんを中心に、若い方と云っても石瀬(旧姓江本)・宮本さん停まりの皆さんのご努力で、開催で来た事、そのご苦労に敬意を表する。以上、まとまらない雑駁な文になったが、老人の戯言と、ご寛容の程

素老人 新妻