校歌のいわれ

創立後2、3年間、皆がいっしょに歌える歌がありませんでした。 そこで国語科の山下政太郎先生が作詞し、講師で本校に来ておられた笹谷栄一朗先生が作曲したのが「緑陰深き」でした。25年ごろのことです。

当時初代主事(校長)の松原先生も、時折りにできた歌の中で、歌い継がれて残ったものが校歌であろうというお考えだったようです。

しかし、続いて新しい歌ができるようすもなかったので、創立10周年を迎える31年ころふたたび山下先生の作詞、当時講師であった倉世古浜子先生が作曲した「秩父の山なみ」ができました。 当時の本校の校風、自然環境、その他の雰囲気を十分配慮してできた歌だといいます。

その後42年第7代校長太田善麿先生の作詞に同年着任した堀田教官が作曲した「おおきいづみ」ができました。

これらを総称して「学校の歌」といってきましたが、この創立30周年を期して「校歌」をきめることになりましたが、多くの論議を重ねた結果、最初の歌「緑陰深き」をもって校歌にすることにしました。(新妻俊次)

「50年のあゆみ」より)

校歌(緑陰深き)

作詞
山下 政太郎
作曲
笹谷 栄一朗

このメロディーは20期の鈴木(二瓶) 美子さんからいただいたものです。

このピアノ伴奏は、泉旺同窓会がお願いをして、30期の内田(諏訪)亜紀子さんに演奏していただきました

1.緑陰深き森かげに 若草もゆる泉あり
  つきせぬかおりうちにひめ そとえいえいとわきこぼつ
  ああ大泉その名ぞ母校 われらつどいぬ菊の葉のもとに
2.はしき心と強き手を くみてすくわんこのいずみ
  高き理想と堅き意志 かかげうつさんこのいずみ
  ああ大泉その名ぞ母校 われら学ばん菊の葉のもとに
3.今東雲(しののめ)の空高く 伸びゆくいのち四百余
  泉よ菊よとことわに われらが胸にかおれかし
  ああ大泉その名ぞ母校 われら歌わん菊の葉のもとに

秩父の山なみ

作詞
山下 政太郎
作曲
山下 浜子

このピアノ伴奏は、泉旺同窓会がお願いをして、30期の内田(諏訪)亜紀子さんに演奏していただきました

1.秩父の山なみ 遠くかすみて
  連なるひろ野に 麦の穂ひかる
  かがやく大地に わが友よいざ
  腕くみて立たん この学び舎(や)に 
2.真黒き大地を かたく踏みしめ
  おおいなる歩み いまぞ始めん
  栄えある未来に わが友よいざ
  腕くみて立たん この学ぴ舎に
  すこやかに おおらかに
  われら生きん 菊の葉のもとに 

おおきいづみ

作詞
太田 善麿
作曲
堀田 昭

このピアノ伴奏は、泉旺同窓会がお願いをして、30期の内田(諏訪)亜紀子さんに演奏していただきました

1. いまわれら 友と肩組む
   友どちの腕 すこやかにのぴ
   すがしき学ぴの庭 ここにあり
   大き泉と名に負ひて 強き力の 湧くところ
2. いまわれら 友と花やぐ
   友どちの歌 諧(かな)ひ響きて
   たのしき学ぴの園 ここにあり
   大き泉と名に負ひて 清き心の 湧くところ
3. いまわれら 友と語らふ
   友どちの面(おも) かがやきにみち
   いそしき学びの館(たち) ここにあり
   大き泉と名に負ひて 深き英知の 湧くところ

校章

東京学芸大学附属大泉中学校校章

菊の花と大泉のえにしは、大泉師範初代校長、木下一雄先生のころからのものです。先生のお話によると「はじめは菊の葉っぱ二枚の上に泉師と入れた。

しかし練馬大根の葉っぱと間違える人が出てきたので1年後には菊の花に、改めた」そうです。

本校は、昭和22年4月、第三師範学校(旧大泉師範)附属中学校として発足しました。現在の校章はその時決められました。わが校の校章には上記の菊がそのまま受けつがれました。

当時の本校主事松原元一先生のお話によると「第三師範の校章は菊の花で、真中のずいに「師」と入れていた。そこで、「師」の代わりに「中」としてみた。

いっぽう附属小学校で真中に犬きく「小」と入れたので、本校では「中」と入れてみた。両方くらべて結局、後に決定した」とのことです。

さて、昭和51年度末の男子学帽廃止とともに校章へのなじみが簿くなりました。そこで、美術科の高木先生のご苦心により52年度からバッチや枚旗に、枚章の形を残すことになりました。

ちなみに申せば、校歌の中にも菊が歌いこまれています。(鳥谷倫子)

「50年のあゆみ」より)